1970年代,電波天文学者のジョン・オサリヴァン(John O’Sullivan)らは,スティーヴン・ホーキング(Stephen Hawking)が提唱するブラックホールの蒸発を,蒸発に伴って発せられる電波を検出することで,実験的に確かめようとしていた。
しかし,ブラックホールからの電波は,地球に到達するまでに星間物質によって歪められることに加え,宇宙全体から届く他の電波がノイズとなるため,有意味なシグナルを識別することが困難であった。そこで彼らは,特定の電波を選別するための技術開発を行った。
だが,この試みは結局うまくいかなかった。
その後,1980年代,オサリヴァンはコンピューターのワイヤレス通信技術の改善を任された。当時の技術では毎秒数100Kb程度の通信しか可能ではなかったが,これを1000倍まで増やすことが課題であった。そのため,オサリヴァンは数学者や物理学者を含むチームを結成し,プロジェクトに取り組んだ。
多くのデータをワイヤレスで素早く通信するためには,データを小さく分割してたくさんの異なる周波数の電波で同時に転送し,受信機の方で正しく再構成する必要がある。しかしこのときもまた,飛び交う他の電波など,多くのノイズが通信の障害になった。
これを克服するためにオサリヴァンが利用したのが,かつてブラックホールからの電波を検出するために開発した技術であった。彼らはその技術を用い,シグナルを選別するために高速でフーリエ変換を行うことが可能なチップを生み出した。これが高速のワイヤレス通信技術,Wi-Fiの誕生を可能にした。ブラックホールの電波検出の研究が,後に多くの人の日常生活に不可欠となる新たな技術を生み出すことにつながったのである。
このエピソードは,科学研究の成果がどういった応用につながるかを事前に予測することは困難であり,それゆえ短期的な成果の見えない研究にも幅広く出資すること,そしてそれを行う研究者を養成することが極めて重要であるということを示す1つの例となっている。
こうした科学研究の本質の1つを軽視してきたために,研究能力が衰退の一途をたどる日本においては特に,重要なことを示唆するものだろうと思われる。
参考文献
- Shaver, P. (2018). The Rise of science: from prehistory to the far future. Springer.
- https://www.epo.org/news-events/events/european-inventor/finalists/2012/osullivan.html
- https://www.abc.net.au/science/articles/2009/10/28/2726708.htm