ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)は、24歳で行列力学、26歳で不確定性関係を発表し、31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞したドイツの物理学者である。
この量子力学構築の立役者の一人が、理論物理学の天才であることに疑いをはさむものはいないが、実験については少々苦労したようである。
アルノルト・ゾンマーフェルト(Arnold Sommerfeld)とヴィルヘルム・ヴィーン(Wilhelm Wien)の下で学生をしていた彼の博士論文のテーマは、層流の安定性と乱流の性質という流体力学に関するものだった。この論文が受け入れられたハイゼンベルクは口頭試問に進んだのだが、そこで彼にとっての苦難が待っていた。
ハイゼンベルクは物理や数学についての問われる口頭試問で、理論的な部分はこなしたのだが、ヴィーンによる実験物理の質問になると困惑してしまった。
ヴィーンがしっかり指導したはずであった干渉計の分解能の導出法がわからなかったハイゼンベルクに憤ったヴィーンは、だったら電池の仕組みはわかるか、と尋ねたが、ハイゼンベルクは結局それも答えることができなかった。ヴィーンはハイゼンベルクが博士号にふさわしくないと判断した。
その後、ゾンマーフェルトとヴィーンが理論と実験の相対的な重要さを議論し、結果ゾンマーフェルトによる最大評価とヴィーンによる最低評価の中間を取った平均的な評価で博士号を認められたのだが、口頭試問での失敗はハイゼンベルクにショックを残した。
その後、マックス・ボルン(Max Born)の下で働き始めたハイゼンベルクは、当時名の知れた実験家であったジェイムス・フランク(James Franck)に指導を受けたのだが、結局ハイゼンベルクの実験に対する興味のなさを克服することはできず、理論に専念するほうが良いことに二人は同意した。
始めに簡単に述べたその後のハイゼンベルクの理論物理学者としての活躍は改めて述べるまでもない。
だが、彼の実験に対する苦手は、その理論的発展にも関与し続ける。ハイゼンベルクは顕微鏡の分解能の限界から不確定性関係を示そうとしたのだが、ニールス・ボーア(Niels Bohr)に実験的な問題を指摘されてしまい落ち込んだようである。
しかし、これらの議論はボーアが独自の見方を発展させるきっかけになり、現在主流となっている、量子力学のコペンハーゲン解釈が考案されることにもなったのである。
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