Lucasの反機械論とそれに対する反論

Dr. SSS 2020/09/05 - 13:32:46 脳と心
哲学 心の哲学 計算論 数学基礎論 Kurt Gödel Turingマシン 不完全性定理

はじめに

Torkel Franzén(2005)が網羅的に扱っているように、Gödelの不完全性定理は、その発表以来、多くの誤解と誤用の対象となってきた。その代表的な一例が、「Gödelの不完全性定理は人間の心が機械ではありえないことを示している」という認識である。

しかし、この種の反機械論的議論には、繰り返し反論がなされてきており、有効な議論とはみなされていない。そのため、物理学および数学の世界で偉大な功績を残してきたRoger Penroseが、著書『皇帝の新しい心』(1989)および『心の影』(1994)において、この種の議論を基に「量子脳理論」を展開したことは、各方面から誤りの指摘だけでなく、大きな失望も招いた。

ここでは、こうした不完全性定理に基づく反機械論の1つと発端とされるLucas(1961)の議論と、それに対する反論を紹介する。


内容



第一不完全性定理について

まず簡単に議論に必要な前提知識について解説しておこう。 Gödelの第一不完全性定理は、ある程度の算術を含む無矛盾な形式体系には、その体系内で証明も反証もできない文が少なくとも1つあり、したがって否定不完全となることを主張する。 形式体系とは、形式的な言語と公理、および定理を導くことができる推論の規則からなる体系のことである。 定理とは、公理から推論規則を適用して辿り着くことができるもののことで、定理に続く有限な式の列のことを証明という。 そして、ある形式体系が無矛盾であるとは、文$\varphi$と、その否定$\lnot \varphi$が共に定理となるような文が存在しないことを言う。

足し算や掛け算といった初等算術を扱うことのできる無矛盾な形式体系では、Gödel文と呼ばれるその体系の内部では証明も反証(その否定の証明)もできない文を構築できる。 Gödel文は、「この文はこの体系内では証明できない」ということを主張する。 このように体系の内部で証明も反証できない文は決定不能な文であるといい、決定不能な文がある形式体系は否定不完全であるといわれる。

こうした形式体系は理論上、Turingマシンという仮想的な機械に対応付けられる。 Turingマシンとは、有限種類の記号と決められた指示に従っていわゆる機械的な計算を遂行する装置で、現代のコンピュータもTuringマシンの原理に基づいて構築されている。 ここでは、Turingマシンは単純化されたコンピュータと思ってもらえればいいが、一方で、無制限のメモリを持つ理想化された概念でもある、ということには注意しておく必要がある。

(Gödelの不完全性定理について学びたい人に向けた入門的テキストとしては、Peter Smithの『An Introduction to Godel's Theorems』をお勧めする)。


Lucasの主張

Lucas(1961)の議論は以下のようなものだ。 形式体系$F$が与えられたとき、理論上は$F$の定理をすべて出力する機械$M_F$を構築できる。 $F$が第一不完全性定理の適用できる体系であれば、その内部で証明不能な文$G_F$を構成することができ、$M_F$も対応する文を出力することができない。

ここで、人間の心をモデルする機械を用意する。 少なくとも算術の能力のある面だけを見れば、人間の心と同じか、それ以上の能力を持つ機械を作るのは容易だ。 だが、この機械はGödel文$G_F$に対応する文を出力することができない。 他方、人間はGödel文$G_F$が真であることを見て確認することができる。 つまり、機械にはできないが、人間の心には可能なことが少なくとも1つはあることになる。 したがって、「機械は心の完全かつ適切なモデルにはなりえない」とLucas(1961)は結論づける。


反論

上のLucasの主張には、複数の点に反論が向けられた。 ここでは、最も直接的かつ簡潔な反論と思われるものを扱う(その他の議論については、例えばMegillの解説を参照)。

それは、複数の論者が指摘していることで、単純にLucasによる第一不完全性定理の理解は正確ではないということだ。 Lucasは、第一不完全性定理があたかも、形式体系が無矛盾でありさえすれば我々に真とわかるGödel文が存在する、と述べているかのように主張している。 しかし、我々にわかることは

(※)もし形式体系が無矛盾であれば、そのGödel文は真である。

ということだけであり、形式体系が無矛盾であることを決定する手立てがない限り、例え実際にその体系が無矛盾であっても、我々がGödel文を真であると知ることはできないし、実際に我々ヒトを含めた複雑な動物の心を再現するほど複雑な機械の無矛盾性を証明できる見込みもない。 そしてまた、(※)は体系内部でも証明できることであるから、機械と我々の間に違いを生み出すものではないのである。 さらに、Gödelの第二不完全性定理は、もし我々の心が無矛盾な形式体系であったなら、我々自身がその無矛盾性を証明することもできないことを示唆する。

実は、これらのことはLucas(1961)自身認識している。 彼はその後のパラグラフでこう述べる:

Gödelの定理が適用されるのは無矛盾な体系のみである。 我々が形式的に証明できることは、もし体系が無矛盾であれば、Gödel文はその体系内では証明できない、ということだけである。 我々が、Gödel文はその体系内では証明できず、したがってまた真である、と断定的に言えるためには、無矛盾な体系を扱っているだけでなく、それが無矛盾であると言えることも必要である。 そしてまた、Gödelは彼の第二定理(第一定理の系)において、無矛盾な体系内部でその無矛盾性を証明することはできないことを示した。 したがって、それが真であること、および機械がそれを真であると出力できないことをともに言える式を作ることによって機械の欠点を指摘するためには、機械(あるいはむしろ対応する形式体系)が無矛盾であることを言えないといけない。 そしてその絶対的証明は存在しないのである。 我々にできることは機械を検証し、それが無矛盾に見えるかどうか確かめることだけであり、検知されない無矛盾性が隠れている可能性は常に残り続ける。

Lucasはそれでも、我々が無矛盾な体系であると「思われる」理由を列挙する。 だがこれは、彼自身が認識している理由から、無矛盾性の証明にはつながらないし、いずれにしても、Gödelの定理を正しく理解する限り、Lucasが望むような機械と人間の心の差異を示すような結論は得られないのである。

こうした反論もあり、(本人の認識は別として)Lucasの議論は退けられた。 それゆえ、Penroseが『皇帝の新しい心』において同様の議論を土台に、量子脳理論という訝しい理論を提示したことは多くの失望を招いたのである。 Penroseは『心の影』においてさらに別の形の議論を提示しているのだが、それに対しても各方面から批判が向けられ、量子脳理論自体が説得力を得ることはなかった。Penroseの議論の内容とそれに対する批判についても、別記事で紹介する予定である。


参考文献



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