我々には以前と同じ世界に戻れないことがわかった。
核爆弾開発を主導したロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)は,後にトリニティ実験後の感想をこう振り返った。
実際,原子爆弾は思いがけないところを含め,様々な影響を世界に残した。意外な影響を受けた例の一つが,絵画の世界である。
2013年,イタリアの美術館に所蔵されているフランスの画家フェルナン・レジェ(Fernand Léger)が1913年から1914年に制作した作品の一つが贋作であると判明した。この鑑定を行ったのは原子物理学者たちのチームであった(Caforio et al. 2014)。
放射性炭素年代測定
彼らが鑑定に用いたのは,放射性炭素年代測定と呼ばれる手法を応用したものだ。炭素年代測定法とは,炭素の同位体が含まれる割合から物質の年代を測定するものだ。
原子は,原子核と電子から成り,原子核は電気的に中性な中性子と正の電荷を持つ陽子から成っている。そして,陽子の数は同じだが,中性子の数が異なる原子核同士を,同位体という。例えば炭素原子のほとんどは陽子,中性子ともに6個ずつの炭素12($^{12}$C)であるが,中性子の数が1つ多い炭素13($^{13}$C)や中性子がさらにもう1つ多い炭素14($^{14} $C)もわずかに自然に存在する。これらは光合成によって植物に取り込まれ,そこから動物の体内にも広まっていく。このうち炭素14は放射性同位体と呼ばれる不安的な原子であり,崩壊して別の原子に変わってしまう(中性子が陽子に変わり,$^{14}_{\ 7}$Nへと変化する)。
この反応が起こる確率は一定であるため,最初に用意した炭素原子の集まりのうち,炭素14が時間と共にどのくらいのペースで減少していくかを正確に予測することができるし,反対にこのことを利用して,動植物の化石の年代などを調べることができる。植物や動物は生命活動を行っている間は,絶えず環境中の炭素を体内に取り込むため,体内に含まれる炭素同位体の割合も一定に保たれる。しかし,死んで生命活動が停止すると,もはや新たに炭素が取り込まれず,放射性同位体は崩壊を続ける一方であるため,例えば化石であれば,それに含まれる放射性同位体の割合を調べることで,その化石が形成された年代を見積もることができるのである。これが,放射性年代測定法と呼ばれるものだ。
汚染の痕跡
ただ,研究チームが利用したのは,なめらかな炭素14の減少曲線ではなかった。彼らが利用したのは,原子爆弾が残した痕跡だ。
レジェが没した1955年以降の冷戦時代に行われた核実験により,大気中に含まれる炭素14の割合が倍増した。その結果,キャンバスの素材となる綿や亜麻などを含めた生物中の炭素14の割合も,10年ほどで同じように倍になった。研究者たちはこの特異的な放射性同位体濃度の上昇を,「ボム・ピーク(Bomb Peak)」と呼んでいる。
この事実を踏まえ,研究者らが作品から得られた微量のサンプルに含まれる炭素14の割合を調べた結果,その作品には核実験の痕跡がしっかりと残されていることが確認された。つまり,その作品がレジェの生きている間に制作されたものではありえないことがわかったのだ。
こうした手法は,少量のサンプルから正確な測定結果を得ることができる近年の技術進歩が可能にしたものであり,イタリアの事例を皮切りに,別の贋作を見抜くためにも応用されている(例えば(Hendriks et al. 2019))
他にも,原爆投下以前にはそもそも自然界にはほぼ存在していなかったセシウム137($^{137} $Cs)やストロンチウム90($^{90} $Sr)を検出することにより同様の鑑定を行う試みもなされている。
このように,ホモ・サピエンスという有害で危険な動物が残した汚染の痕跡は,至るところに刻み込まれているのである。
References
- Caforio, L., Fedi, et al. (2014). Discovering forgeries of modern art by the 14 C bomb peak. The European Physical Journal Plus, 129(1), 6.
- Hendriks, L., et al. (2019). Uncovering modern paint forgeries by radiocarbon dating. Proceedings of the National Academy of Sciences, 116(27), 13210-13214.