Schrodinger方程式の重要な数学的性質の一つは,それが線形な方程式だということである。 したがって,波動関数$\psi_1$と$\psi_2$がそれぞれ同じSchrodinger方程式の解であったならば,それらの線形結合
もまた,同じSchrodinger方程式の解となる。 ここで,$c_1,c_2$は定数である。 これを,状態の重ね合わせの原理(principle of superposition)と呼ぶ。
重ね合わせの原理は,数学的には,Schrodinger方程式の解がベクトル空間を構成することを示している。 逆の見方をすれば,Schrodinger方程式を満たす波動関数は,あるベクトル空間の元として扱うことができる。 以下,このベクトル空間を$H$と表すことにし,その性質をもう少し詳細に探る。
波動関数$\psi(x)$は位置$x$を変数とする複素関数である。 これの複素共役との積の積分
は,ベクトル空間$H$から複素数の集合$C$への写像であり,$\forall \psi,\phi,\varphi\in H$および$\alpha,\beta \in C$に対し次の性質を満たす。
これらの性質を満たす写像は内積と呼ばれ,内積が定義されるベクトル空間を内積空間(inner product space)あるいは前Hilbert空間(pre-Hilbert space)という。 今スカラーとして複素数の集合$C$を考えているが,内積および内積空間は,$C$を任意の体$F$に置き換えて定義できる。
$H$は内積空間であることに加え,完備(complete)であることも仮定する。 完備性についてのより詳細な説明は最後に補足として与えるが(あるいは『Cauchy列と完備性』を参照),完備な内積空間はHilbert空間(Hilbert space)と呼ばれる。 すなわち,$H$はHilbert空間であり,したがって波動関数$\psi$はHilbert空間内のベクトルとして扱えるということになる。
上では量子力学系の状態を表す波動関数は,数学的にはHilbert空間のベクトルとみなせることを議論した。 しかし,波動関数そのものは観測量ではない。 観測されるのは常に実数である何らかの観測量の値である。 内積とはベクトル空間からスカラーへの写像であり,理論と観測の整合性を決める観測量の値は,内積を通して得られるのである。 よって,量子力学系の状態を表すためには,今扱っているような関数の集合としてのHilbert空間を考える必要はなく,同じ内積の値を与える別の数学的対象が成すHilbert空間を考えてもいい。 このことは,後に量子力学の異なる形式を導入する際に理解の助けになるはずである。
ある集合の元をある規則に従って並べたものを点列という。 より形式的に述べると,集合$H$の点列とは,集合$H$に対して,自然数の集合$N$の元から$H$の元を対応付ける写像
のことである。
ここではもちろん,集合としてHilbert空間$H$を考える。 $H$の点列$\{\psi_n\}_{n=1}^\infty$と,あるベクトル$\psi$に対し
が成り立つとき,点列$\{\psi_n\}_{n=1}^\infty$はベクトル$\psi$に収束するという。 これはしばしば
のように表記され,$\psi$をこの点列の極限という。
他方,$n,m\in N$に対し
となる点列をCauchy列という。 つまり,$n,m$をどんどん大きくしていくと,差が限りなく小さくなっていくような点列のことである。 このような点列はなんらかの点に収束するように思えるが,その収束先が考えている空間に含まれているとは限らない。 よって,Cauchy列であるからといって収束するとは言えない。 これに関して,極限がその空間に含まれ,どんなCauchy列も収束するような内積空間(より一般に距離空間)を完備であるというのである。